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白いかさぶた

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 蓮見先生は、原因不明の昏睡症を患っている。
 彼は年に一、二度ほどの頻度で、毎晩の睡眠や仮眠から目を覚まさないことがあった。
 数日、長くて十日程の間は昏睡してしまうため、医務局に入院して治療を受ける必要がある。彼が保健センターの職員寮に住まわず、私達と学園で暮らしているのは、同棲者の目が行き届く環境の方が安全なためでもあった。
 早起きの蓮見先生が朝食に現れなかったのは、一週間前のことだった。彼は自室のベッドで、深夜の眠りのように昏睡していた。
 私はそれから毎日、保健センターに通っていた。蓮見先生は医務局の病棟で眠る。その側に私はただ座り、しばらくの時を過ごす。そういった見舞いを、一週間続けている。これまで、蓮見先生が命にかかわるような容態になったことはなかったが、昏睡が長引くのは不安だった。
 病棟の三階、ひとつの個人病室に、蓮見先生は入院している。
 眠る蓮見先生を、私は随分長く見つめていたようだった。消灯した病室を照らす夕陽は青色に翳り、辺りは薄暗くなっていた。
 蓮見先生は、両の瞼を柔らかく閉じたままで、今日も目を覚ますことはなかった。薄明かりに照らされた布団の毛羽けばは、蓮見先生の呼吸に合わせて、微かに動き続けている。その暖かなリズムに安堵するのと同時に、彼と同じ世界にいない寂しさが胸を締め付ける。

 先生は、夢を見ているの?

「蓮見先生」
 返事は無い。眠る彼に、私の言葉は届かない。
 蓮見先生の口元を見る。少し乾燥した唇の上には、鼻腔に繋がる医療用のチューブが載っている。上唇と鼻の間には、白いテープでチューブが留められている。
 幼かったあの日、私は確かに彼の夢を読んだ。舌の先に強く感じたものは、味覚や触覚ではなく、デジャヴのように脳をくすぐる心象だった。

 触れてみたら、分かるかな。
 〈ナミ〉の新芽を読む時のように、あなたの舌に触れられたら。

 青色に冷めた病室の中で、私の胸の内は、結露のように湿り気を帯びていた。そのことに気がついて、慌てて椅子から立ち上がる。
「……おやすみなさい。また明日」

 医務局の廊下は冷えていた。クス本土から温暖さを羨まれるマキサ島でも、二月の寒さはさすがに厳しい。夕刻が近づくにつれて、足下の冷気が強まっていく。
 冷たい廊下に、医療機器の載るワゴンが引かれる音が響いていた。蓮見先生の主治医である春日カスガ先生と看護師達が、遠くから歩いてくるのが見えた。
「おや。こんにちは、能登君。お見舞いに来たのかな」
 近づいて会釈をすると、春日先生は口角ににこやかな皺を刻んだ。
「こんにちは。今日はもう帰るところなのですが、あの……春日先生に、以前からお伺いしたいことがあって。今、お時間大丈夫でしょうか」
「ああ、大丈夫だよ。それにしても能登君、そんなにかしこまらなくていいのに」
 春日先生がそう言うと、看護師達が笑った。
「そうだよ、能登ちゃん! あなたはみんなの可愛い弟なんだからね」
 看護師達は医療器材を載せたワゴンを引き、近くの病室へと入っていった。私と春日先生は、廊下の突き当たりにある休憩所を目指す。
 私は大人と話す時、堅苦しく思われてしまうようだった。この島の誰もが、私のことを末子として親しんでくれる。しかし、私が話し慣れている大人は、学園に住む家族である、数人の兄と先生達だけだった。
 休憩所に辿り着き、春日先生とソファーに並んで腰掛ける。春日先生は、こちらを向くように斜めに座った。
「お話というのは、蓮見君のことかな?」
「はい」
 膝の上で、紺のスカートの生地をつねる。冷えた指先が象牙色になっている。
 私は少し緊張していた。それは、春日先生に人見知りをしているためだけではなかった。
「……蓮見先生の病気は、生まれつきですか」
 私の質問に、春日先生は黙り込んだ。何か考え込むような表情を見せ、しばらくして、思い出したように柔和な表情を浮かべる。
「いいや、先天的なものじゃない。蓮見君が度々昏睡するようになったのは、二十代の頃からだよ」
「それくらいの年齢で発症しやすい病気なのですか?」
「うーん……」
 春日先生が困った顔で言いよどみ、頬を掻く。
 私の尋ねていることは、大人達が話したがらないことであり、何かの秘密が隠されている――そういった確信が、この島に生まれた十七年の間に、少しずつ積み重なっていた。
「蓮見君の病気に病名はないんだ。原因が分からないし、他に似たような患者さんがいるわけでもないから、何か特定の傾向があるわけじゃなくて……蓮見君の方からは、何か聞いてるかい」
「命に関わる病気じゃないから大丈夫、とは言われています。ただ、詳しくは教えてもらえなくて」
 これまでに何度か、蓮見先生に病気のことを尋ねたことがあったが、彼は詳しく話すつもりがないようだった。
「うん。原因が分からないことは気がかりだけど、彼の身体は無事だ。昏睡で危険な容態になったこともないし、今週中にはきっと目が覚めるよ」
 春日先生が、穏やかな口調で語る。私がまだ保育院生だった頃、蓮見先生の入院に泣きじゃくっていたのを、彼は同じ口調でなだめていた。
 春日先生の気遣いを悪くは思えないものの、私は、大人達のこういった態度とは訣別するつもりでいた。

 私はもう、子供じゃない。
 みんなの弟じゃない。私はこれから先生に、みんなの神父になる。
 だから、蓮見先生のことは――大人たちの隠していることは、知っていないといけないんだ。

「……蓮見先生の昏睡は、聖堂での仕事と関係があるのでしょうか」
 長く抱えていた疑念を口にする。春日先生がぴくりと顔を上げた。
「そうだね……神父という職業は、とても責任が大きい。それに、臍帯網から『夢』を読まなくてはならないし、聖堂自体が脳を疲労させる空間でもある。世の中の神父達のほとんどが、何かしらの不調を抱えている」
 私は、神父を目指していることを学園の皆に告げた日のことを思い出した。誰もが私の決意を称え、明るい言葉で激励するのとは裏腹に、表情は皆どこか寂しそうであった。
「それに……能登君ももう上級生だから、話すけれどね。心の病にかかる神父も多いんだ」
 私に向かって斜めに座っていた春日先生は、いつのまにか正面を向き、俯いていた。
 しばしの沈黙が続く。床を見ると、私達の影が無数の照明に象られ、パズルピースのように不可解な形を描いていた。
 神父になることは何よりも誉れ高いかわりに、人間の生から最も遠い道を選ぶことである――中級生の頃、古いウォーム学の本にその一節を見つけてから、しばらく本が読めなくなってしまったことがあった。
 あの時私を支配した感情は、恐怖だったのだろうか。
「能登君はもう聖堂に入って、蓮見君から仕事を習い始めているのでしょう。それで何か、神父の仕事と病気が関連していると思うことがあったのかな?」
「はい。一週間前、蓮見先生はいつもより長く臍帯網を読んでいました。疲れてしまうんじゃないかって、心配したのですが……私に仕事を教えるために、蓮見先生は無理をしているようでした」
 私の言葉に、春日先生は大きく頷いた。
「臍帯網を読む仕事は集中力が要るから、どうしても疲れてしまうのだろう。蓮見君の昏睡の原因には、神父の仕事での疲労があるのかもしれないね。……能登君もこれから聖堂で仕事をするようになるわけだけど、何か体調に変化があったら、すぐに私達に相談するんだよ」
 春日先生の口調は、やはり幼い私に向けられたものと同じだった。私は最も知るべきことをうやむやにされないように、急いで言葉を続ける。
「あの、春日先生」
「ん?」
 立ち上がろうとしていた春日先生が、再びソファに腰掛ける。
「今までに、自分の名の臍帯網を読んでしまった神父はいますか?」
 春日先生が、短く息をついたのが分かった。口元の皺が堅く引かれ、翳っている。
「それは、世界中での話かい? それとも、このマキサ島で?」
「マキサ島で、です」
 自分の声が、きつく尖っていた。
「……いたよ。禁忌を冒す神父が現れるのは、この島に限った話ではないけれどね。一千年前、新暦が始まってから今の時代になるまで、マキサにもそういう神父が数人いたと聞く。私も……そんな神父の一人を、看ていたことがある」
 春日先生が答える。その口調は、私を甘やかすものではない。彼の独白に近いものだった。
「その神父は禁忌を犯して、どうなったのですか」
「……まだ若いうちに、亡くなってしまった」
 春日先生が立ち上がって、話を続ける。
「精神を患っていて……自殺したんだ。彼が心を病んだのは、禁忌が原因の一つだったのかもしれない」

 では、その人は、どうして禁忌を犯したのですか。
 その神父は、島の誰もが話したがらない、鶴木という人物なのでしょう。

「能登君。君は蓮見君のことをよく気遣っていて、とても偉いと思う。蓮見君も、君の先生としてきっと嬉しいだろう。だけど、君が元気に過ごしていることが、彼にとって一番の特効薬になるんだ。だから、あまり難しく考え込まないで」
 春日先生はそう言って、休憩所を立ち去っていった。私はソファーに座ったままで、遠ざかっていく背中を睨んだ。
 質問は、続けられなかった。
 私は、鶴木という名の神父――蓮見先生の先生をしていた人物の存在と、彼が自殺したことを知っていた。
 その名を聞いた大人達は、決まって堅く口を閉ざしてしまう。唯一、加辺先生は一度だけ話をしてくれて、彼が冗談好きの陽気な人柄であったこと、聖堂で自分の臍帯網を読む禁忌を犯した神父であったことを語ってくれた。
 しかし、鶴木という名を耳にした大人達の、悲痛な表情を思い出すと、彼について尋ねることは憚られてしまった。
 私が知りたかったことは、蓮見先生の昏睡の原因であり、禁忌の意味であり、鶴木という神父のことであった。
 それらは、マキサ島の大人達が話したがらない秘密だ。幼い私を撫でる蓮見先生を、寂しい笑顔で黙り込ませてしまう秘密なのだ。

 私は、大人達に隠されているものを見つけたい。誕生季を迎える度に胸に募っていく、この憂鬱と不安の原因に辿り着きたい。
 蓮見先生の知るものを、私も一緒に知っていたい。
 そうやって、彼の世界にいたいんだ。

 医務局の廊下を早足で進む。冷気に触れる肌の中で、頬が熱くなっている。その熱の質を反芻しながら、これは涙の予兆ではない、と強く思った。