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花の根を解くように

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 人の声が聞こえた。
 数人が話し込んでいる。聞いたことのある声だった。良くない話をしている、とすぐに分かった。やがて一人が泣き始めた。
 喉の奥で、血潮がざわめいた。それと同時に、ゆっくりと視界が定まってくる。早朝の薄ら明かりで満ちた、青白い空間。白衣の生地と変わらない色。人の手で作られた白さ。
 首を傾げる。見知らぬ布団が胸元に見えた。僕は、病床に寝ていた。
「なんで、だよ」
 泣いている声が、辛うじて言葉になっていた。廊下の外に、誰かが集まっているようだった。
「鶴木……」
 嗚咽混じりの声が、聞き慣れた名前を呼んだ。加辺先生の声だった。

 パンジーと目が合ったような気がした。
 僕は墓地にいた。花壇に整列するように植えられたパンジーは、保育院生のマーカーが転げ回ったような色をしていた。
 どうして僕は墓地にいるのか、と思った。園芸係の当番をしていたのは、学生の頃だ。
 パンジーの整列の前に屈む。パンジーというのはあだ名で、この花には難しい名前があるのだ。僕はそれを知っている。きっと他の誰も知らない、長い名前。

 あなたの名前は、九州理工三色菫型造生きゅうしゅうりこうさんしきすみれがたラボンという。

 人の顔にも似た、その花に語りかける。冬の空気を割くような、極彩色の花弁へと手を伸ばすと、その手は見慣れぬ黒い袖を着ていた。僕が好んで着ることのないその色は、喪服の色だった。
「鶴木先生」
 口がひとりでに、その名前をこぼした。

——鶴木は……ウォーム棟を出た途端、鋏を自分の腹に刺したらしい。俺が医務局に駆けつけた時には、もう手遅れだった。
——あいつは最期にこう言った。母を殺した、と。

 加辺先生が、病床の僕に語りかけた言葉を思い出す。弱々しく涙ぐんだ、けれども厳しい眼差しで、彼はそう言った。
 立ち上がり、墓地の庭園を見渡す。花壇の広場を抜け、葉を落とした桜並木の小道を行くと、糸杉の茂みがある。その影に隠されるように、僕たちの島の薬葬場やくそうじょうはあった。
 薬葬場のような造りの建物は、この島には他になかった。コンクリートの角柱を寝かせたような平屋に、緑青色のガラスでできた小窓が並ぶ。その無機質な質感と、幾何学を体現したような造りは、生活から葬儀を切り離すためのものだった。
 薬葬場の玄関に入ると、喪服を着た大人が五人集まっていた。手前にいた保健センターの所長が振り向き、僕に声をかけようと口を開いて、目線を逸らす。少しの間をおいて、彼は再び背を向けた。
 所長の向こうには、保健局長、ウォーム部長、学園長が並んでいた。彼らも僕を振り返り、何か言おうとしながらも背を向ける。
 一番奥には、加辺先生が立っていた。彼は振り返らず、目の前のものを見つめている。
 所長達の横を通り過ぎ、加辺先生の隣に立つと、白い担架が目に入った。
 その上には、鶴木先生の亡骸があった。
 最後に見たままの無表情で、瞼は緩く閉じられて静止し、赤ら顔だった頬は完全に褪めていた。
 縮れた黒髪が、担架の上でばらけていた。目印のように被っていたハンチング帽が、腹の上に載っている。その上に重ねられた両手の、痩せた指の間に、赤茶色がかすれているのが見えた。
 古びた黒いコートは、腰から裾にかけて、鈍い光沢を帯びていた。ガラス張りの天井から差し込む朝日が、その光沢に微かな赤色を透して見せて、僕はそれが乾いた血であることを理解した。
 その傷ついた体を納めるべき棺は、用意されていない。この島の世代を絶った彼の罪は、重かった。
「始めよう」
 加辺先生がそう言って、他の四人がこちらに近寄り、足を止めた。四人はそれ以上近寄らなかった。やがて、加辺先生が鶴木先生の亡骸に寄り添い、体を抱え込んだ。
 亡骸の首ががくんと傾き、顔が前髪に隠れる。がっしりとした体格の加辺先生に比べて、細身であった鶴木先生の体は、今、ひどく小さく見えていた。
 加辺先生が腰を上げ、歩き出す。その先には、人が立ち入るためのものではない、小さな扉があった。
 僕は加辺先生の先を行き、扉の取っ手を捻った。重い鉄の扉を開くと、レールに乗って、車輪付きの黒い寝台が滑り出してきた。その上に、加辺先生が亡骸を寝せる。鶴木先生の、上等な革靴を履いた細い足が、力なく横を向いた。
 僕は、亡骸の乗った寝台を押した。鶴木先生の体は、足下から壁の向こうにしまわれていく。
 亡骸の腹に載ったハンチング帽を見下ろしながら、その派手な柄について、鶴木先生に尋ねたことを思い出した。

——これは、ペイズリーという柄だ。
——種子と胎児、生命を描いた紋様なのさ。

 虹色の紋様が壁の向こうへ納まりかけた時、これが最後なのか、と気付いた。暗闇に閉ざされる前に、鶴木先生の顔を見ようと思った。
 寝台の上でかしいだ顔は、ほんの少しだけ、笑っているように見えた。
「人形みたいだ」
 僕が言って、誰も答えなかった。
 小さな扉を閉めて、取っ手を元の位置に戻す。これからこの亡骸は、地下の巨大な薬液槽で分解され、土壌に浸透し、マキサ島の死者として墓地の植物達を育む。
 振り返り、所長達の苦々しい顔と、加辺先生の疲れた顔を見た。皆が僕を見ていることを確認して、壁のレバーを下げる。重たい物を動かすような低い音と、手応えがあった。その感触は、鉄の扉よりも重かった。

 薬葬場を囲む糸杉の向こうに、ウォーム棟が建っていた。ウォーム棟もこの島に唯一の造りをしていたが、薬葬場とは対照的に、生成のタイルで覆われた外壁を輝かせ、高くそびえる塔の形をしている。
 僕は二つの建物を見て、教会の遺跡を思った。図版に伝えられるかつての教会の姿は、低い堂と、高い塔から成っていた。
 薄い雲が空を覆っている。まだ朝なのか、もう昼を過ぎているのか、薬葬からどれほどの時間が経ったのか、分からない。墓地の庭園には、誰もいない。
 ふと、花壇のパンジーに、笑いかけられたような気がした。

 僕は、聖堂を目指して歩く。
 僕はあの場所で、鶴木先生の葬式をしなくてはならない。