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聖堂

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 僕達は、一株の臍帯網の前に立っていた。
 この聖堂に林立する乳白色の樹木——六十七の臍帯網の集束のうち、それは、先代の神父に〈ナミ〉と名付けられた株だった。
 〈ナミ〉は他のどの株よりも若く、繊細なつくりだった。天井から垂れた無数の臍帯網の小束が、細い枝のような形に縒り合わさって幹を作っている。その幹は、大人一人で抱え切れるほどの太さしかない。
 そしてその繊細さは、〈ナミ〉がこの古い聖堂で化石化を免れている、希少な部位であることの証拠だった。
「蓮見先生。臍帯網、触ってみてもいいかな」
 僕の横で、能登ノトが尋ねた。黒く長い睫毛の隙から、薄青の瞳が僕を見ている。
「少し待って。出力を確かめるから」
 僕は〈ナミ〉の前で膝をつき、根のほころびに結わえ付けられた紙札を確認した。
 漢字一字と日付のメモが書き入れられた、数十枚の紙札。その中から、『原』の文字が記された一枚の札を手に取り、慎重に根の一束を引き出す。
 〈ナミ〉を形作る臍帯網は、化石化してしまった他の株と比べて、臍帯網同士の癒着がほとんど進行していない。
 表面に露出している臍帯網は、どれもつたの茎のように柔らかく、奥まった部位を引き出すことは容易い。その分、絡まって千切れてしまうことがないよう、十分な注意が必要だった。
「ゲン……いや、『ハラ』だ」
 背後で能登が呟く。いつの間にか彼は僕の後ろに屈み、おさげを垂らして札をのぞき込んでいた。
「見て、これが臍帯網の新芽。神父はここから、臍帯網を読むことができる」
 僕は、葉脈のように細かく分岐した臍帯網の先端——この株の新芽であるその部位を、指先に載せてみせた。
 その瞬間、小さなしびれが手から腕を伝い、頭の奥に向かって走る。
 僕の意識は、居眠りのように緩く途切れた。
《足の裏を 優しいものがくすぐっている》
《辺りには 何もない》
《走るのをやめ 眠りにつく》
《暖かいのは 大地に抱かれているから》
「細かい。パンジーの根っこみたいだ」
 感嘆する能登の声で、ほんの一瞬の夢から現実に戻る。
「……能登ちゃん。これは問題ないみたいだから、触っていいよ。優しくね」
 僕は『原』の札が結われた根本を持ち、床に置いたランタンの前に新芽をかざしてみせた。
 能登は、すぐには触らなかった。雨に濡れた蝶を助けるかのような慎重さで、恐る恐る右手を近づける。
「!」
 新芽の末端に能登の指が接した瞬間、彼は息をのみ、肩をびくりと跳ね上がらせた。僕は慌てて臍帯網の束を引き離す。
「驚いたでしょう、大丈夫?」
 能登は緊張した顔を崩さない。僕は少し心配になって、俯き気味の彼の顔を覗き込む。
「痛くなかった? もう十七歳だし、体への影響はほとんど無いはずだけど」
「ううん。痛くはなかったけど、一瞬、頭の中が光ったみたいで……なんだか、変な感じ」
 能登は強くまばたきをして、僕の持つ臍帯網を見据えた。
「あの……もう一度触ってみてもいいかな。私も先生みたいに、臍帯網を読めるようになりたいんだ」
 能登の緊張した面持ちは、聖堂に不慣れなためだけではないようだった。彼からは、少しでも早く一人前の神父にならねばならないという、強い意志が感じられた。
「いいよ。ただ、臍帯網を読むことは、脳や身体に負担がかかることだから……慣れないうちは無理しないで。具合が悪くなったら、すぐに言ってね」
「うん、分かった」
 僕は能登に『原』の新芽を差し出した。彼は慎重に、しかし恐れることなく新芽に触れた。
 能登の目線が宙を惑う。透き通る薄青の瞳が、彼のものではない思念に曇らされ、微睡まどろむ。能登は、新芽から発された心象へと、無事に没入できているようだった。
「……能登ちゃん、読めそう?」
 能登の様子を注意深く観察する。彼の瞳は遠くを見つめたままで、ひとりでに目覚める気配はない。
 僕は能登の手を取り、その指先から臍帯網を離させた。彼は少々没入しすぎていたらしく、昼寝から起こされた子供のように、気の抜けた声を漏らした。
「ん、えっと……」
「さっき、夢みたいなものを見たでしょう」
「うん。夢の中で、懐かしい感じがして……とても広い場所にいた。原っぱ、だったと思う。この札の示すとおりに」
 僕は『原』の臍帯網を〈ナミ〉の根本に戻す。
 〈ナミ〉の若い臍帯網の中で、『原』を含む数本には、成長がはっきりと観察される。元の場所に帰った『原』の臍帯網はくるりと回るようによじれ、隣に細く延びている、まだ未熟な『沢』の札に絡んだ。
「能登ちゃんは、この場所が脳神経のようだと言ったでしょう。それはね、すごく的を射た言葉なんだ」
 僕は立ち上がり、〈ナミ〉のもとを後にする。能登も僕に連れ立って、隣を歩く。
「さっきの臍帯網の中には、原始的な懐かしさと一緒に、草原の風景のようなイメージが通ってる。その心象はウォームにとって、脳内を駆け巡る言葉のようなものなんだ。僕らはそれを新芽から読み取り、自分達の使える語彙に当てはめて——極東であれば、漢字に置き換えて札に記している」
 聖堂を歩く。僕達の周りには、化石化の進行した何株もの臍帯網が、潮風に晒された老木のように佇んでいる。そのいずれの幹にも、漢字の記された古い紙札がびっしりと結えつけられている。
 もし臍帯網が一本の樹木であるならば、その木の葉は言の葉である——僕は、先代の神父から伝えられた、謎かけのような冗談を思い出した。
「いつか、〈ナミ〉の地上に子供が生まれたら、『原』の字を使って命名する時が来る。その時は、能登ちゃんも一緒に名前を考えよう」
「……うん」
 能登が立ち止まり、振り返る。
「『原』の夢を見る子、会えたらいいな」
 そう言って、能登は〈ナミ〉を遠く見つめた。その表情は、沈痛な憂いに満ちていた。
 ほとんど壊死した僕達のウォームが、最期に遺した神経細胞である、〈ナミ〉。心象の姿をした精子は、これから羊水槽に宿す子供のゲノムを、〈ナミ〉の新芽に表してみせる。
 しかし、それらの器官は、長らく懐胎を成功させずにいる。
 マキサで子供の誕生が祝われたのは、十七年前の今日、能登の生まれた日が最後だった。